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第3話 神谷ひかり

Penulis: 桃神かぐら
last update Tanggal publikasi: 2026-10-06 16:00:00

 どれほど待ったのか、神谷正人には分からなかった。

 閉ざされた扉だけを見つめ、何度も両手を組み直していた。

 やがて、その扉が開く。

「神谷さんですね」

 医師の声に、正人は弾かれるように立ち上がった。

「はい」

「奥さんは出血がありましたので、そのまま出産を進めました。母体も赤ちゃんも注意が必要な状態でしたが、早く搬送していただけたのは大きかったです」

「それで……」

 喉が張りつく。

 聞くのが怖かった。

「千鶴と……子どもは?」

 医師の表情が柔らかくなった。

「お二人とも無事ですよ。女の子です」

「……二人とも?」

「はい」

 正人の膝から力が抜けた。

 長椅子へ座り込み、両手で顔を覆う。

「生きてる……」

 涙が止まらなかった。

 七十四年の人生で、いくら金を稼いでも取り戻せなかった二人が、今は生きている。

 それだけでよかった。

 少しして、生まれたばかりの娘を見せてもらった。

「元気な女の子ですよ」

 看護師が微笑む。

 正人は息を呑んだ。

 小さい。

 赤みを帯びた顔。細い腕。頼りないほど小さな身体。

「触っても……?」

「大丈夫ですよ」

 恐る恐る人差し指を近づける。

 すると小さな手が動き、正人の指を握った。

「……俺が、父ちゃんか」

「そうですよ。お父さんです」

 反射なのかもしれない。

 それでも正人には、その小さな力が胸の奥まで届いた。

「ありがとうございます」

 看護師へ深く頭を下げる。

 自分が救ったなどとは思わない。

 医師が処置をした。

 看護師が支えた。

 救急隊員が運び、山田澄江が電話を貸してくれた。

 正人がしたのは、逃げずにその場にいて助けを呼んだだけだ。

 だが前の人生では、その当たり前さえできなかった。

 しばらくして、千鶴との面会を許された。

 病室へ入る。

 千鶴は枕へ頭を預け、疲れ切った顔をしていた。

「千鶴」

「……はい」

「ありがとう」

 千鶴が眉を動かす。

「何がですか?」

「生きててくれて。それと……子どもを産んでくれて、ありがとう」

 千鶴はしばらく黙っていた。

「今日、そばにいてくれたことには感謝しています」

「ああ」

「でも、それで今までのことがなくなるわけじゃありません」

「分かっとる」

「お酒をやめる。競輪をやめる。ちゃんと給料を家に入れる。前にも聞きました」

「……ああ」

「だから私は、まだ正人さんを信用できません」

 胸が痛んだ。

 だが当然だった。

「信じてくれとは言わん」

「え?」

「許してくれとも言わん。これから俺が何をするか見とってくれ。それで千鶴が決めればいい」

 千鶴の目に、わずかな戸惑いが浮かんだ。

 その時だった。

「正人さん」

 病室の入口から硬い声がした。

 振り返る。

 千鶴の母、宮崎美恵子が立っていた。

 美恵子は正人を無視して娘のもとへ向かう。

「千鶴。大丈夫?」

「お母さん……うん。まだ少し痛いけど」

 娘の顔を確認してから、美恵子はようやく正人へ向き直った。

「正人さん。聞きたいことがあります」

「はい」

「入院のお金、どうするつもりですか」

「千鶴が貯めていた三万円は、千鶴と子どものために使います」

「その後は?」

「仕事へ戻ります。給料は家へ入れます。借金も全部調べて、俺の給料から返します」

「競輪は?」

「やめます」

「お酒は?」

「やめます」

 美恵子の表情は変わらない。

「その言葉を何度聞いたと思ってるの」

「分かっています」

「分かっていたら、出産間近の妻のお金を持って競輪へ行こうなんて思わないでしょう」

「……はい」

「今さら『やめます』と言われて、何を根拠に信じればいいの?」

「ありません」

 美恵子が口を閉じた。

「今の俺には、信じてもらえる根拠なんてありません。借金を返す。働く。給料を家に入れる。千鶴と子どもを養う。一つずつやります。それを見て判断してください」

 しばらく沈黙が落ちた。

「……私はまだ信用しませんから」

「それでいいです」

 正人は風呂敷から封筒を取り出した。

 三万円。

「千鶴。これ、返す」

「……返す?」

「最初から俺の金じゃない。千鶴と赤ん坊の金だ」

 封筒をベッド脇へ置く。

「これからの給料も家へ入れる。俺が使う金は、必要な分だけ相談して決める」

「本当に……?」

「言葉じゃ信用せんでいい」

 美恵子も何も言わなかった。

 やがて話は、生まれた子どもの名前へ移った。

「名前、考えとったか?」

「……いくつかは」

 正人には、五十年間忘れられなかった名前がある。

 前の人生で千鶴を失ったあと、美恵子から聞いた。

 女の子だったなら、千鶴はその名前をつけるつもりだったと。

「ひかり」

 千鶴が目を見開いた。

「……どうして?」

「この子を見たら、そう思った」

 本当の理由は言えない。

「嫌か?」

「いいえ」

 千鶴はゆっくり首を振った。

「私も……女の子なら、ひかりがいいと思ってました」

 正人の喉が震えた。

「神谷ひかり」

 千鶴が静かに口にする。

「ああ。いい名前だ」

 前の人生では、生まれることのできなかった娘。

 正人が最初の店を『ひかり屋』と名づけたのも、その名前を忘れたくなかったからだった。

 あの看板は成功の始まりであり、五十年間、失った娘へ向けて立て続けた墓標でもあった。

 だが今は違う。

 ひかりは生きている。

 泣き、息をし、小さな手で父親の指を握った。

 千鶴が眠ったあと、正人は廊下の長椅子へ腰を下ろした。

 ここからは現実だ。

 三万円は千鶴へ戻した。

 財布にはほとんど金がない。

 借金も残っている。

 千鶴は産後で、ひかりには衣類もおむつも必要になる。

 だが焦る必要はない。

 収入を把握する。

 無駄な支出を止める。

 借金を整理する。

 給料を家へ入れる。

 それから、余裕ができた金を次の収入へ回す。

 今すぐ店を借りるなど論外だった。

 資本も信用もない。

 商売は始める。

 だが、家族の生活を賭け金にはしない。

「まず家だな」

 小さく呟く。

 病室の小窓から、中を見る。

 眠る千鶴。

 そのそばに、生まれたばかりのひかり。

 前の人生では、どちらもいなかった。

 なら働ける。

 いくらでも働ける。

 神谷正人には五十年分の経営経験がある。

 だが二度目の人生で最初に再建しなければならない会社は、八千億円のひかりグループではない。

 三人しかいない、神谷家だった。

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